東京エレクトロンはなぜ生まれた?
TBSの500万円出資から世界的な半導体製造装置メーカーへ
いまや世界の半導体産業を支える企業の一つとなった東京エレクトロン株式会社(Tokyo Electron Ltd./TEL)。2026年3月期の売上高は2兆4,435億円、連結従業員数は2万812人。世界18の国と地域、102拠点で事業を展開する、日本を代表する半導体製造装置メーカーへと成長しています。 、その出発点は巨大な研究所でも大手電機メーカーでもありませんでした。
1963年、若い商社マンだった久保徳雄氏と小高敏夫氏らが、東京放送(現在のTBSホールディングス)の出資による資本金500万円で立ち上げた「株式会社東京エレクトロン研究所」が始まりです。
まだ日本でIC(集積回路)の将来性を疑う声も少なくなかった時代に、なぜ彼らは半導体製造装置へ賭けたのでしょうか。東京エレクトロンの歴史をたどると、現在のTELにも通じる「最先端技術への挑戦」と「誰と組むか」という経営思想が、創業時から見えてきます。
東京エレクトロンの創業者は久保徳雄氏と小高敏夫氏
東京エレクトロンが設立されたのは1963年11月11日です当時の社名は「株式会社東京エレクトロン研究所」。東京放送の出資を受け、東京都港区赤坂に資本金500万円で設立されました。東京エレクトロン自身も、創業者として久保徳雄氏と小高敏夫氏を挙げています。小高氏は慶應義塾大学工学部を卒業後、1959年に日商(現在の双日)へ入社。久保氏とともに「半導体が産業を変える」という可能性を見据え、東京エレクトロン研究所の創業に関わりました。 東京エレクトロンは巨大メーカーですが、最初から製造設備や巨大工場を持っていたわけではありません。
創業当初は、海外の先端技術や装置を日本企業へ紹介する技術商社としての性格が強い会社でした。
「自分たちのやり方で仕事がしたい」商社マンから起業家へ
久保徳雄氏と小高敏夫氏は、もともと総合商社の日商で働いていました。当時、日本では半導体産業そのものがまだ黎明期。半導体製造装置は米国企業が先行しており、日本企業が最先端の装置を導入するには海外メーカーとの橋渡しが欠かせませんでした。しかし、大量の商品を扱い、取扱高を拡大していく総合商社のビジネスと、一つの高度な技術を深く理解して顧客を支援する半導体製造装置の仕事には大きな違いがあります。
創業期を描いた牧野茂氏の著書『異端の男とその一族―火の玉集団・東京エレクトロンの奇跡』(東洋経済新報社、1982年)などをもとにした記録では、久保氏と小高氏は、より技術に深く入り込んだ仕事を自分たちの手で実現しようと考えていたとされています。 、会社をつくるには資金が必要です。
そこで重要な役割を果たしたのが、意外にも「テレビ局」でした。
なぜTBSが東京エレクトロンに500万円を出資したのか
東京エレクトロン創業史の中でも、とりわけ興味深いのが東京放送(TBS)との関係です。創業期について記した資料によると、久保氏はニューヨーク駐在時代に知り合った東京放送の吉田稔氏との人脈を頼り、東京放送へ事業構想を持ち込みました。その先にいたのが、当時東京放送副社長だった今道潤三氏です。今道氏はのちに東京放送社長や日本民間放送連盟会長を務めることになる有力経営者で、東京エレクトロンへの出資を後押ししたとされています。当時の東京放送の社史でも、今道氏が副社長、吉田氏が取締役を務めていたことが確認できます。 て1963年11月、東京放送の出資によって資本金500万円の東京エレクトロン研究所が誕生しました。資金だけでなく、「TBSが後ろ盾になっている」という信用そのものが、創業間もない会社にとって大きな力だったと考えられます。
まだ未知数だった「IC」に東京エレクトロンは賭けた
もう一つの重要な経営判断が、半導体、特にIC製造関連の装置へ早期に目を向けたことです。1960年代前半のICは、現在のように社会のあらゆる場所で使われる存在ではありませんでした。それでも東京エレクトロン研究所は、拡散炉やリークディテクタ、IC製造機器など、半導体生産に関係する先端装置の販売へ乗り出します。
東京エレクトロンの公式沿革によると、
| 年 | 主な出来事 |
|---|---|
| 1963年 | 東京放送の出資、資本金500万円で東京エレクトロン研究所を設立 |
| 1964年 | 米サームコ社から拡散炉の輸入販売代理権を取得 |
| 1965年 | 米フェアチャイルド社とICテスタの代理店契約 |
| 1966年 | ICテスタ1号機の輸入販売を開始 |
| 1968年 | サームコ社との合弁会社を設立し、拡散炉の国内生産を開始 |
| 1976年 | 世界初の高圧酸化装置を開発 |
| 1978年 | 「東京エレクトロン株式会社」へ商号変更 |
という流れで事業を拡大しました。 優れた技術を「輸入して売る」だけだった会社が、やがて日本国内で装置を生産し、さらに自ら新しい装置を開発する企業へ変わっていったのです。
※創業期を扱う一部資料にはフェアチャイルドとの契約やICテスタ納入を1964年とする記述もありますが、本記事では現在の東京エレクトロン公式沿革に基づき、1965年に代理店契約、1966年にICテスタ1号機の輸入販売開始としています。 「商社」から「半導体製造装置メーカー」への転換
東京エレクトロンの歴史を考えるうえで重要なのは、単に米国製品を輸入して成功した会社ではないという点です。
1968年には米サームコ社との合弁会社「テル・サームコ」を設立し、拡散炉の国内生産を開始。
1976年には世界初となる高圧酸化装置を開発するなど、徐々に自ら技術を生み出すメーカーへと変化していきました。 1978年、「株式会社東京エレクトロン研究所」から現在の東京エレクトロン株式会社へ商号を変更。
1980年には東京証券取引所市場第二部へ上場し、1984年には第一部へ指定替え。さらに半導体製造装置の海外展開を進め、1991年までに同分野のメーカー売上高世界ランキングで3年連続首位を記録しました。 には海外技術を日本へ持ち込む側だった会社が、やがて世界へ自社技術を送り出す側になったわけです。
創業時から変わらない「最先端に張る」という姿勢
東京エレクトロンの創業ストーリーで特に印象的なのは、会社の規模ではなく市場の未来を見て事業領域を選んだことでしょう。創業者たちは、すでに大きくなっていた市場ではなく、まだ先行きが見えない半導体とICの世界へ進みました。さらに、単なる販売量ではなく、製品を深く理解して顧客に技術サービスまで提供するという方向を選択しました。
現在の東京エレクトロンも企業の基本方針として、最先端技術分野において高品質な製品を提供し、市場をリードすることを掲げています。また、同社は「顧客満足」を創業以来大切にしてきた価値観と位置付けています。 TELの経営思想につながる原型は、すでに1963年の創業時に存在していたと見ることもできます。
TBSとの縁は60年以上たった現在も続いている
そして興味深いことに、創業資金を出したTBSとの関係は、歴史上のエピソードだけでは終わっていません。東京エレクトロンの株主情報によれば、2026年3月31日時点でTBSホールディングスは東京エレクトロン株を3.31%保有する主要株主となっています。 3年に500万円を出資して誕生を支えた企業が、60年以上を経てなお株主として名前を残していることになります。
世界的な半導体製造装置メーカーとなった東京エレクトロンの原点には、技術だけでなく、人との出会いと信頼によって生まれた資本関係がありました。
資本金500万円から売上高2兆円企業へ
1963年当時の資本金は500万円でした。
それから60年以上。
東京エレクトロンは2026年3月期に売上高2兆4,435億円、連結従業員数2万812人を擁し、世界18の国と地域・102拠点で事業を展開する企業へ成長しています。 けを比べれば、創業当時とはまったく別の会社のようにも見えます。
しかし、
「まだ誰も確信していない最先端技術へ踏み込む」
「優れた技術を世界から探し出す」
「顧客の技術課題に深く入り込む」
「有力なパートナーと組みながら成長する」
という姿勢は、東京エレクトロンの創業から現在まで一本の線でつながっています。
記事要約(Summary)
東京エレクトロンは、久保徳雄氏と小高敏夫氏らが1963年に設立した「東京エレクトロン研究所」を原点とする企業です。創業資本金は500万円。その資金を提供したのは、半導体メーカーでも金融機関でもなく東京放送(現在のTBSホールディングス)でした。創業直後から半導体・ICの将来性に着目し、米サームコ社の拡散炉や米フェアチャイルド社のICテスタなど、当時の最先端装置を日本へ導入。その後は輸入販売だけにとどまらず、国内生産や独自開発へ進み、技術商社から半導体製造装置メーカーへ転換していきました。
そして現在、東京エレクトロンは売上高2兆円を超え、世界各地で半導体産業を支える企業へ成長しています。資金も知名度も十分ではなかった若い商社マンたちが、人とのつながりを頼りに500万円を集め、まだ未知数だった半導体の未来へ賭けたこと。
そこに、現在の東京エレクトロンへと続く創業物語の原点があります。
























